リアナビ

スペシャリストの眼

「斜め45度」の視点

2019年4月16日

第314回 「三菱地所のリリース」と「日本建築学会からの連絡」──3.11回想

 私は大学と大学院で建築構造について学んだ後、日経BP社が発行する建築専門誌「日経アーキテクチュア」の記者になった。そのため、各地で大きな地震が発生する度に、真っ先に現地に取材に訪れる役割を担っていた。

 それに加えて、私は岩手県の出身である。父親が地方公務員だった関係で岩手県の宮古市、花巻市、釜石市、水沢市、盛岡市などで暮らした。2011年3月11日の東日本大震災では、沿岸部に位置する宮古市で住んでいた家は無事だったが、同じく沿岸部に位置する釜石市で住んでいた家は津波で流されて跡形も無くなってしまった。

 そのため3.11が近づくと、どうしても大震災に思いが行ってしまう。

 今年は、3.11の前日は日曜日だった。仕事机に向かって、当時のことを考えていると、3月10日(日)の16時24分に三菱地所広報部からプレスリリースが届いた。

 「日曜日なのに、珍しい」と思いながら読むと、メールには次のように記されていた──。

 三菱地所レジデンスの有志社員100名超による、ボランティア組織「防災倶楽部」の訓練サポートは、2014年10月から88物件となり、習志野市「奏の杜」エリアでのサポートは5年目となりました。

「ザ・パークハウス 津田沼奏の杜」からはじまった防災訓練は、今や戸建や他社分譲のマンションも対象となり、対象世帯が2300世帯。本日、過去最大規模の防災訓練が実施されました──。

 そして、プレスリリースには、3月10日の午前9時〜12時に実施された訓練風景が、多数の写真を添えて紹介されていた。また参加者のコメントも紹介されていた。

【参加者のコメント】
「自分では備えているつもりだったが、まだまだ備えが足りないことに気づいた」

 

「通電火災を避けるために、ブレーカー用の器具を備えておきたいと思った。火災が起きるとマンション全体に影響するので、自分だけが取り組むのではなく、マンション全体で取り組みたい」

「アレルギー対応食や眼鏡など、各々が必要なものを備える必要性に気づいた」 


(写真は防災訓練の様子)

 午前9時〜12時に実施された防災訓練の様子が、16時過ぎに送信されたということは・・・。よく考えてみると、広報部のスタッフも待機していたことになる。

 そして、ここまで読んで、やっとプレスリリースが3.11ではなく、その前日の日曜日(3月10日)に届いた意味を理解できた。おそらく、次のような気持ちが込められていたのではないか。

 3.11はどうか慰霊の日として、犠牲者のために祈ってください。
 ただ、その直前の日曜日には、できるなら防災訓練をしてください。
 そして、3.11には、犠牲者の方々にその報告もしてあげてください。

 ■■■3.11当日に、帰宅困難者になって感じたこと

 東日本大震災の当日、私は東京都千代田区神田神保町にある建築設計事務所で取材している最中だった。長く続いた大きな揺れがやっと収まった後、テレビをつけてもらって情報を収集すると、東北地方の広域で震度7〜6強が記録され、沿岸部は大津波に襲われていることが分かってきた。

 それに加えて、東京の電車はほぼストップしていることも分かった。私の自宅は東京駅から新幹線に乗らなければ帰れない距離にあるので、このままでは帰宅困難者になってしまう。

 しかし設計事務所の所長が、「このオフィスでよければ一晩過ごしてください」と言ってくれたので、帰宅困難者ではあるけれど、幸いにも寒くない環境で仮寝することができた。そして翌日は朝早く起きて東京駅まで歩き、運転を再開していた新幹線の一番電車に乗車した。

 後で知ったことだが、JR東日本は地震発生後に終日運休したのに加えて、いち早くシャッターを閉めて、構内から乗客を閉め出してしまったそうだ。当時の石原慎太郎東京都知事は、後日、これに強く抗議したと伝えられる。

 その一方では、心暖まるようなニュースもあった。三菱地所グループは、東京丸の内や横浜みなとみらい地区などにある、10数棟のビルのロビー階や商業施設の空きスペースに、シートを敷設するなどして滞在スペース確保。3500人超の帰宅困難者に提供したのだという。

 私自身がお世話になった訳ではないが、このニュースを知ってから、三菱地所グループには何となく親しみを感じるようになった。

 ■■■日本建築学会から「被災地には当分行かないように」という連絡

 新幹線で帰宅した後、被災地の情報を収集。私の故郷が壊滅的な大被害を受けたことを知って、「地震の被害を取材してきたジャーナリストとして、なるべく早く現地に行かなければならない」と考えた。

 当時の私は、日経BP社を離れてフリーのジャーナリストになっていた。ただし、日経BP社のウェブサイト「SAFETY JAPAN」に、地震、事故、防災、安全などをテーマにした記事を連載していた。

 それとは別に、日本建築学会の会員として各種の委員会にも参加していた。よって、そのルートを使って現地に行って、記事を書く計画を立てた。

 しかし、意外にも、日本建築学会の関係委員会からは、「被災地には当分行かないように」という趣旨の連絡があった。

 大地震が発生すれば、すぐに現地に出発。建築物を中心にして被害の状況を調査し、それをベースにして被害を少なくするための対策を考えるのが建築学会の使命である。それなのに、なぜ、被災地に行ってはいけないのだろう?

 建築学会はその理由を、次のように説明した(私の記憶)。

 ◇福島第一原発事故による影響で、首都圏から東北方面に向かう主要道路は大混雑。交通量をこれ以上増やしにくい、危機的な状態に陥っています。

 ◇それとは別に青森県、岩手県、宮城県などでは、沿岸部を中心にして道路、橋、線路などのインフラが大きな被害を受けています。加えて、救難部隊や救援物資を送り届けるために、道路は大変に混雑しています。

 ◇さらに、被災地の皆さんは今、食糧不足、暖房用の燃料不足、ガソリン不足、自動車不足、避難場所不足に悩んでいます。

 ◇そういう状態のときに、建築学会の会員が建物被害の調査に出かけると、どうなるかお分かりですか。被災地の皆さんの食糧、燃料、ガソリン、自動車、避難場所を奪うという形で、大変な迷惑をかけてしまうのです。

 要するに、日本建築学会としても初めて経験するような、非常事態に直面。そのため、「被災地には当分行かないようにしてほしい」という、異例の連絡を出さざるを得なかったのである。

 ■■■現地に行かないで書いた記事

 日本建築学会からの連絡の趣旨には納得できた。しかし地震被害は私の守備範囲であるのに加えて、なにしろ私の故郷(岩手県)も大きな被害を受けている。現地には当分、行けないにしても、現地の地形や風土を覚えているのだから、何か書ける記事があるに違いない。

 そう考えて、約2ヵ月で6本の記事を書いた(「SAFETY JAPAN」に掲載)。

 (1)超巨大地震がもたらした未曽有の「五重苦」
 (2)三陸の山を削り、高台をつくって街を移す「グスコーブドリ構想」
 (3)オーストラリアの全国紙記者が感じた「日本の建造物の強さ」
 (4)高台へ移転して悲劇の連鎖を断ち切る、「グスコーブドリ構想」の発進 
 (5)同じ過ちを「四度」繰り返さないために「いざ、三陸の高台へ」 
 (6)長周期地震動により「死を覚悟するほどの恐怖」を感じた理由

 このうち(2)の「グスコーブドリ構想」とは、岩手県生まれの詩人・童話作家である宮沢賢治の作品「グスコーブドリの伝記」に描かれた、災害の被害をなくするための構想を意味している。

 また(3)は、オーストラリアの全国紙記者から「日本の建造物の強さ(耐震強度)」について質問があったため、それに答える形で執筆した。

 そして(4)は、高さ10m、総延長2.5kmもの防波堤を築き上げて、万里の長城のように町を取り囲んだにもかかわらず、大津波による壊滅的な被害を受けた岩手県宮古市田老町の惨状を分析した上で、私なりの提案をした記事だ。驚いたことに、この記事に関しては田老町の住民の方から、問い合わせの電話があった。

 三菱地所広報部から「3.11の前日」に届いたプレスリリースに眼を通したため、当時の記憶がよみがえってきた。それに触発されて、その日のうちに、この記事を一気に執筆することができた。

 翌2019年3月11日(月)14時46分には、はるか東北地方に心を通わせながら、手を合わせて追悼の祈りをささげた。

細野 透(ほその・とおる)

建築&住宅ジャ─ナリスト。建築専門誌『日経ア─キテクチュア』編集長などを経て、2006年からフリ─ランスで活動。

東京大学大学院博士課程(建築学専攻)修了、工学博士、一級建築士。

著書に、『建築批評講座』(共著、日経BP社)、『ありえない家』(日本経済新聞社)、『耐震偽装』(日本経済新聞社)、 『風水の真実』(日本経済新聞出版社)、『東京スカイツリーと東京タワー』(建築資料研究社)、 『巨大地震権威16人の警告』(共著、文春新書)、『謎深き庭 龍安寺石庭』(淡交社)など。


BackNumber


Copyright (c) 2009 MERCURY Inc.All rights reserved.