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2011年11月8日

第48回日本初のエレベーターがたどった数奇な運命

 11月10日は「エレベーターの日」である。1890(明治23)年11月10日に、レンガ造12階建ての「凌雲閣」において、日本初の電動式エレベーターが稼働したことにちなんで、日本エレベータ協会が定めた。しかし、日本初のエレベーターが、その後、数奇な運命をたどったことを知る人は少ない。

 凌雲閣は東京で最初の「高層建築」として建設され、後に浅草十二階と改名された。高さは173尺(52メートル)。10階まではレンガ造、11階と12階は木造だった。設計者は、帝国大学工科大学(現、東京大学工学部)のお雇い外国人、ウィリアム・K・バルトン。最上階の12階には、望遠鏡が備え付けられていた。

 凌雲閣の敷地は、浅草千束町二丁目三十八番地(現、台東区浅草二丁目十三番十四番あたり)。現在では、浅草ビューホテルから国際通りをはさんだ東側、花やしきの西側、浅草新劇場の北側、に位置する区画である。

 平面は八角形で、内径は1階が10メートルで、10階は9メートル。面積でいうと、下階が83平方メートル(約25坪)、上階が66平方メートル(20坪)程度になる。平面の中央に2台分のエレベーター室があり、その周囲に店舗が配置され、外壁に沿って階段がつくられた。店舗は各階あたり平均6店舗なので、キオスク程度の広さである。エレベーターは8階止まりで、それより上は徒歩。11階と12階には、外を眺めやすいように、バルコニーが付いていた。

 当時の人々の楽しみの種は、エレベーターに乗り、最上階から景色を眺め、店舗や展示品を見て回ることである。東京の建物は、ほとんどが平屋か2階建てだったので、東京最初の「高層建築」である凌雲閣からは、伊豆、富士、丹沢、多摩、甲信、上毛、日光、筑波の山々が、パノラマのように見えたという。

 しかしながら、凌雲閣のエレベーターは開業直後からたびたび故障を起こした。そのため、開業から半年後の1891年5月下旬に、監督官庁の判断で稼働停止に追い込まれた。しかも、エレベーターが再稼働するのは、驚くことに23年後になる。

 【凌雲閣のエレベーター】

 1890年11月10日開業。エレベーター稼働。

 1891年5月下旬。エレベーターが稼働停止になる。

 1894年6月20日。マグニチュード7の地震後に、エレベーターを撤去。

 1914年4月。エレベーター復活。

 1923年9月1日。関東大震災により、8階から上部が崩壊。

 1923年9月23日。赤羽の工兵隊が解体。

 年表に見るように、1894年6月20日、東京をマグニチュード7の地震が襲い、5階から7階までのレンガ壁に亀裂が生じた。地震の後、凌雲閣では、大規模な補修工事を実施した。稼働停止になっていたエレベーターは、このとき撤去した。

 それから23年後の1914年4月に、エレベーター復活した。しかし、祭日を除けば人出は少なく、かつてのようなブームは起こらなかった。

 1923年9月1日。関東大震災により、8階から上部が崩壊した。上部を失った浅草十二階は、危険であるとして、9月23日、赤羽の工兵隊によって爆破、解体された。このとき、数奇な運命をたどった日本初のエレベーターも姿を消した。建物が立っていた約34年間のうち、エレベーターが稼働した約11年に過ぎない。薄幸だったことになる。

 凌雲閣(浅草十二階)から東に約1.7キロ歩くと東京スカイツリーがある。そのエレベーターを受注したのは東芝と日立製作所。このうち、東芝の超高速エレベーターは、40人乗りで分速600メートルで、第1展望台(高さ350メートル)まで地上から50秒弱で到着する。東京スカイツリーのエレベーターが大いに賑わうことを願いたい。

細野 透(ほその・とおる)

建築&住宅ジャーナリスト。建築専門誌「日経アーキテクチュア」編集長などを経て、2006年からフリージャーナリストとして活動。  東京大学大学院博士課程(建築学専攻)修了、工学博士、一級建築士。日本建築学会・編集委員会顧問。 ブログ『建築雑誌オールレビュー』を主宰。日経産業新聞『目利きが斬る・住宅欄』に寄稿。  著書に、『建築批評講座』(共著、日経BP社)、『建築家という生き方』(共著、日経BP社)、 『ありえない家』(日本経済新聞社)、『建築産業再生のためのマネジメント講座』(共著、早稲田大学出版部) 、 『耐震偽装』(日本経済新聞社)、『風水の真実』(日本経済新聞出版社)ほかがある。


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